ユグルタ戦争(ユグルタせんそう)は、紀元前111年から紀元前105年にかけて北アフリカのヌミディア王であるユグルタがローマ高官を買収し北アフリカでおこした反乱。ユグルタはヌミディア王国を実力で統一し、ローマと対立、ガイウス・マリウス指揮のローマ軍と戦い敗北。前105年ユグルタがマリウスの副官ルキウス・コルネリウス・スッラの捕虜になり終結。ローマ政界の腐敗を象徴する戦争。
ユグルタはヌミディア王国の首都キルタ(現:コンスタンティーヌ(アルジェリア))に生まれた。ユグルタの祖父マシニッサは大スキピオに組して、ハンニバル率いるカルタゴ軍を破るのに貢献したことで北アフリカへ勢力を拡大(ポエニ戦争を参照)。マシニッサが没した紀元前148年までに、王国は領土を西隣はマウリタニア(Mauretania)、東隣はカルタゴ、さらに東端はキュレナイカ(Cyrenaica)にまで拡大した。
マシニッサの後を継承したユグルタの養父ミキプサが紀元前118年に死去した後、ユグルタはミキプサの2人の息子ヒエムプサル、アドヘルバルとヌミディア王の地位を巡って争いが生じて、ユグルタが勝利を収めた。戦いでヒエムプサルは死亡、アドヘルバルは逃亡してローマへ仲裁を申し出たため、ローマ元老院により東部をユグルタ、西部をアドヘルバルが統治することが取り決められた。
紀元前112年ユグルタは西ヌミディア王アドヘルバルを攻撃し彼を殺害、同時にアドヘルバルを匿ったキルタ滞在のローマ市民への殺害にも及んだことから、ローマより宣戦布告を受けて戦争状態に陥ったものの、程なく有利な条件での和約が成立した(賄賂を使ったともされる)。但し、その過程でユグルタに不祥事が明らかとなったことから
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と再度戦争状態となり、ローマはカエキリウス・メテルス(Quintus Caecilius Metellus Numidicus)を総大将とする軍をヌミディアへ派兵した。しかしユグルタ軍の抵抗にあい、戦争は長期化の様相を呈した。
その後、メテルスからガイウス・マリウスへと
外為
官が変更になると、マリウスは一計を案じて、当時配下にあったスッラをユグルタの同盟国マウリタニアへ派遣、ローマ側へ与力するよう要請しマウレタニア王も受諾した。スッラとマウリタニア王の共謀によりユグルタは身柄を拘束され、これによりユグルタ戦争は終結に至った。ユグルタはタレントゥムに抑留され、紀元前104年マリウスのローマ凱旋に際して処刑されている。
ヌミディア(羅:Numidia)は、カルタゴや共和政ローマの時代にベルベル系の部族が住んでいたアフリカ北部の地域・王国。ヌミディアとは古代ローマによる呼称であり、現在のアルジェリア北東部周辺に当たる。ヌミディア王国は、東隣にカルタゴ、西隣にマウレタニア王国と接していた。王国の滅亡後にローマ帝国の属州となる。
「ヌミディア」とは「ヌミド」と呼ばれる半遊牧の先住民の小都市群の事であるらしい。
ヌミディアの名は、歴史家ポリュビオスらに由来する。ポリュビオスは、ポエニ戦争で騎兵として活躍した半遊牧集団のことをギリシア語で「遊牧民」を意味する「ノマデス」(νομ?δε?)と呼んだ。後に、例えばカエサルやティトゥス・リウィウスはこの地域の住民をラテン語で「ヌミダエ」(Numidae)と記し、その国は「ヌミディア」(Numidia)と呼ばれた。しかし、「ヌミダエ」および「ヌミディア」はローマ側の呼称に過ぎなかったとされている。(詳細はヌミディア人の項を参照)
紀元前3世紀頃のこの地域は、二つの遊牧部族連合国家、東のマッシュリー族(Massyli)と西のムティギティ族(Mutigiti)あるいはマサエシュリー族(Massaesyli)に分かれていた。この当時はまだ一つの王国は存在していなかった。
第二次ポエニ戦争時のヌミディア周辺(紀元前218年)第二次ポエニ戦争(紀元前218年〜201年)では、東の王であるガイア(あるいはガラ)はカルタゴと同盟を結んでハンニバルの遠征軍に騎兵を提供し、ローマ共和国と戦った。他方、西のシュファクスは、ローマと
外為
を結んでいた。
ところが紀元前206年、東のガイアが没すると、西王国のシュファクスが東を併合した。ガラの息子であるマシニッサは、カルタゴ領のイベリア半島でローマの大スキピオと戦っていたが敗れ、本国を失ったので大スキピオの軍門に降った。これに対して、シュファクスはローマから離反してカルタゴと同盟を結んだ。
紀元前204年、大スキピオ率いるローマ軍がカルタゴ本国を攻めるために北アフリカに上陸して、カルタゴ・ヌミディア同盟軍を破り、ヌミディアを制圧した。シュファクスはローマの捕虜となり、マシニッサが統一ヌミディアの王として即位した。ザマの戦いでは、マシニッサ王はスキピオ麾下ローマ軍の支援軍として右翼の騎兵隊を指揮して、ハンニバルのカルタゴ軍を破ることに貢献した。なおこのとき、マシニッサが撃退したカルタゴ
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もヌミディア騎兵であった。
後世の
ワラント
が伝えるところによれば、マシニッサが没した紀元前148年には、彼の領土は西隣はマウレタニア、東隣はカルタゴ、さらに東端はキュレナイカにまで達したという。すなわち、カルタゴを南側から包囲した形になったわけである。
紀元前112年からのユグルタ戦争の結果、西ヌミディアはマウレタニアの王ボックス1世(Bocchus I)の支配下になった。しかし、東ヌミディアおよびキュレナイカまで達する広大な版図は、ヌミディア人の王が支配した。
ローマ帝国におけるヌミディアの位置紀元前49年にカエサルとポンペイウスの内戦が勃発した。ファルサルスの戦いでカエサル軍に敗れた元老院派は北アフリカに逃れて、ヌミディア王ユバ1世と協力してカエサルに抗したがタプススの戦いで敗北。元老院派の総司令官メテルス・スキピオは戦死、小カトーはウティカで自殺した。また、ユバ1世も自殺して果てヌミディア王国はここに滅亡して共和政ローマの軍門に降り、ローマ属州アフリカ・ノウァ(Africa Nova)となった。
なお、オクタウィアヌスが紀元前31年にアクティウムの海戦に勝利してローマの覇権を握った後、紀元前25年にマウレタニア王にユバ1世の子ユバ2世を任じた。
紀元193年、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの下で、ヌミディアは属州アフリカ・ウェトゥス(Africa Vetus)から切り離され、皇帝属吏(procurator)の支配下とされた。ディオクレティアヌス帝による帝国再編の四分割統治(テトラルキア)に際しては、「アフリカ教区」の7属州の一つとなり、「ヌミディア・キルテンシス」(Numidia Cirtensis)という呼称で知られるようになった。
紀元428年、ヴァンダル族の侵攻と支配は、ヌミディアを荒廃させていった。こうして、「ローマ帝国の穀倉」と称された肥沃な北アフリカ一帯は、砂漠化に呑み込まれていったのである。
ヌミディア人は、第二次ポエニ戦争においてハンニバル率いるカルタゴ軍が共和政ローマに攻め込んだときに、精強な騎兵として従軍し、ティキヌスの戦い・トレビアの戦い・トラシメヌス湖畔の戦い・カンナエの戦いという一連の戦闘でローマ軍を大いに撃破して勇名をはせた。
マシニッサ王がローマ側に寝返ったザマの戦いでは、ローマ軍右翼とカルタゴ軍左翼がともにヌミディア騎兵であった。これ以降、しばしばローマ軍への支援部隊(アウクシリア)として兵を動員するようになり、その有力な戦力となった。ガイウス・ユリウス・カエサルがガリアへ侵攻したガリア戦争においても、支援部隊として大きな役割を果たし、『ガリア戦記』にもヌミディア兵が登場。カエサルと元老院派の内戦でもヌミディア騎兵が重要な役回りを演じている。
ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(Lucius Cornelius Sulla Felix, 紀元前138年 - 紀元前78年)は、古代ローマの将軍であり政治家。単にスッラと呼ばれることが多いが、「ll」を無視してスラと表記されることも多い。
スッラは二度ローマへ自らの軍を率いて侵入し、最終的に独裁官(ディクタトル)に就任、領土を拡大したローマを治める寡頭政政府としての機能を失いかけていた元老院体制の改革を行った。しかしこの改革は強力な独裁官の権限をもって反対勢力を一網打尽に粛清するという方法も含んでいたために多くの血が流れる事となった。また彼の施した改革のほとんども彼の死後その効力を失うようになる。
ガイウス・マリウスの下でユグルタ戦争を戦い、のちにキンブリ人とも戦い閥族派(オプティマテス)の巨頭となる。同盟市戦争でも顕著な戦績を挙げ、紀元前88年の執政官(コンスル)としてミトリダテス戦争の軍指揮権を与えられたが、これを快く思わないマリウスは護民官スルピキウスと組んでスッラから指揮権を奪い取った。これを聞いたスッラはここで今までローマの執政官が一度もやったことのないことを実行する。与えられた軍勢を率いてローマに攻め上ったのだ。まさか執政官が首都を攻めると思っていなかったマリウスらはあっさり敗北、マリウスはローマから脱出しスルピキウスは殺された。当時はまだローマに常駐する軍団は存在しなかったので町は文字通り「無防備」だったのだ。